好ましい被害者−『夕凪の街桜の国』

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

実は読んでから1ヶ月くらいたつのだが、感想を書こう書こうと思って、そのままになっていた。というのは、このマンガからわたしが感じたことと、絶賛がほとんど、というほかの人の感想のあまりの乖離に、どう語ったら、自分の感じたことが少しでも伝わるのか、とへんに考えてしまったのである。まあ、あまりほっておくとまた忘れてしまうので、とりあえず書いてみることにする。
細かいところまで神経の行き届いた、よくできた作品である。作品自体に、別にけちをつけたいわけではない。だが、正直どうもすっきりしないのは、この静かな物語が、どうしてこれほど感動を呼び、「泣ける」ということになるのか、そちらにばかり関心がいってしまうせいかもしれない。
主人公たちは怒りをあらわにしない。静かな諦念の中にいる。泣いたりわめいたりせず、ただ日常を淡々と生きる人たち。確かに、原爆の惨禍で人生をずたずたにされても、多くの人の生き方はそのようなものだったのだろう。そこを掬い取って見せることにより、かえって無残さを際立たせる。そのような手法は理解できる。これを読んで感動した人たちも、たぶんそういうものとして受け止めているのだろう。
残虐な事件の被害者やその家族が、涙を押し殺し、淡々とした態度で、周りに配慮さえしてみせる姿は、その人たちの徳の高さを見せてくれる。感動を与えるのは当然かもしれない。だが、そういう被害者像を好ましいものとして受け止める感性は、あまりに日本人的だなぁ、とわたしには感じられる。その裏に、外野にとって好ましくない被害者、つまり、恨みをぶつけ、取り乱す姿を、醜い、自分勝手、とそしる残酷さを見るような気がして、そこがどうもひっかかるのである。
思わず目を背けたくなる、いたたまれない現実を覆い隠し、さりげないユーモアにくるんで、提示する。表現としては洗練された高度なものである。『夕凪の街 桜の国』が受け入れられるのは当然だ。だがその一方、生の姿を露骨に描き出す『はだしのゲン』のような表現が忌避されるとしたら、それは受け止める側の衰弱を表すものにほかならないだろう。